木像が一番丈夫やろ、だから木像がええんや

上島亮平さん(仮名)

 私は、親鸞会で仏法を聞き始めて、1年くらいの者です。

 最近、縁があってある本願寺派の末寺で、住職と話をすることがありました。

 ここの僧侶は、親鸞聖人のお言葉をよく知っていて、いろいろの言葉を調子よく話していました。

 私が、「仏教で自殺してはならない理由ってなんですか?」と尋ねました。
 すると急に僧侶同士が顔を見合わせ、困り始めました。
「仏教にそんな理由教えられていたかなあ?」
 相当の時間、ああでもないこうでもないと独言をいい、最後は「また調べてみるわ」というのです。

 そこで、私が、「ならば信心決定しないで死んだらどうなるのですか?」
と尋ねると、
「それは六道いうてな、迷いの世界をぐるぐると回るんや。」
というのです。

「では、『我らが今度の一大事の後生』と書かれているのはどういう意味ですか?」
と尋ねると、
「それは今度の一大事、いうことでこの世が一大事いうことや。」
と、わかったような分からないことを言います。

 仏教は後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決に終わると、いつも聞いています。その後生の一大事を説かなくて、どうして親鸞聖人のみ教えと言えるのでしょうか?

 そして
「親鸞会いうんがあってな、蓮如上人が、
「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と書いてあるから
本尊は名号でないとあかんいうんや。
けどな、木像が一番丈夫やろ、だから木像がええんや。」

 私は空いた口が塞がりませんでした。親鸞聖人が泣いておられる姿が瞼に映ります。

 宗制が改正され、たてまえは「本尊は南無阿弥陀仏」と認めましたが、末寺の実態は、このような状況なのだと知らされました。

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Date posted: 金曜日, 2月 8th, 2008 3:54 PM | Under category: 本願寺の現状
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