親鸞会批判の真実


家族の会の正体 目次

メンバーは本願寺僧侶その他数名

はじめに…

なぜ親鸞会をおとしめるのか

本願寺との歴史的対立

オウムも親鸞会も一緒にしたかった

故意に悪印象を与えている

事実を知りながら故意に歪曲

親鸞会を攻撃的と思わせたい

検証や調査もせず虚偽の情報を掲載

親鸞会これが『非オープン』?

これはどこの世界の話ですか

意図的な誇張と極端な飛躍

恋愛まで管理されると思わせたい?

根拠なき推測と憶測を繰り返す

浄土真宗親鸞会はカルト宗教なのか

具体性はないまま「危険だ」

有名国立大学でも特定できない実体

調査で実体がないことが明らかに


資料 「根拠なき」親鸞会への批難1

悪意と偏見から平気で「カルト集団」呼ばわりする寺報配布

資料 「根拠なき」親鸞会への批難2

鳥取県の本願寺末寺K寺とJ寺



家族の会と会った体験記


家族の会は郵便物が届かない

「あて所に尋ねあたりません」
と郵便物が返っくるのです。実体のない団体なのでしょうか?

本願寺僧侶・瓜生崇氏と会う

すごい形相で怒り出しました。少しこわかったです。

本願寺僧侶H氏と会う

「仏教の目的はなんですか」
「それは分からん」
「では本願寺の目的は」
「それは親鸞会に指摘されているとおり葬式法事ばかりになってしまっているのが現状です」

本願寺僧侶H氏からのメール

実名でメールしても名乗らない

家族の会の会合資料より

本願寺も親鸞会はカルトでない

言うべきことでも書くべきことでもない



親鸞会の真実への反響


掲示板などでの反響

内容には全く触れられていません。よほど読ませたくないのでしょう。

投稿:絶対従う=悪いこと なのか

正しい教えに従うのが悪い?

投稿:生きる目的に涙ぽろぽろ

母から親鸞会に誘われて

投稿:平和のためになぜ戦争?

死が怖くなる

投稿:『飽き性』が生きる目的知った

親鸞会の会員となり仏法を続けて聞いております。

投稿:さらばエスカレーター人生

批判者も、もっと親鸞聖人の教えを真摯に学んでもらいたい。

投稿:あの日、母は帰らなかった

人生の切実な問いに答えるのは司法でも多数決でもない。

末寺からの声・伝わらなかった悲劇

親鸞会で初めて知った、龍谷大学でも聞けなかったこと

投稿・親鸞会に対する非難について

真実を求める道のりも、思考停止してはすすめない

西本願寺「本尊」の改正について

世間からも批判されている本願寺が教義を正し立て直しを計ろうとする健気な努力

「名号本尊、聞いたことない」!?

本願寺の本尊についての現状

「誤解された歎異抄」を読んで1

これでは門徒がお気の毒。

「誤解された歎異抄」を読んで2

旧態依然の真宗大谷派だった。

本願寺崩壊の危機

今後も教えが説かれなければ、本願寺の崩壊はもう時間の問題

本願寺「後生の一大事」の曲解2

東本願寺、西本願寺の迷走

本願寺派ビハーラの本当の目的

何のための医療施設?

「寺の嫁・婿紹介します」

後継者不足に悩む末寺

本願寺の現状・富山県・伏木勝興寺

御正忌法要の惨状

本願寺の現状・本願寺「宗制」の改正

「宗制」に本願寺が「名号本尊」を明示せざるをえなくなった



よくある質問


Q1財施について

高額な財施を募っている?

Q2.無条件服従について

高森顕徹先生に無条件服従を強いられる?

Q3.マインドコントロールについて

家族関係がうまくいかなくなったのも、全部親鸞会のマインドコントロールによる?




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親鸞会 空白

投稿・親鸞会に対する非難について



親鸞会会員の立場から


親鸞会 学生

 私は、現在親鸞会の会員です。このサイトも拝見させていただき、親鸞会について、実際の会員の立場で、いろいろな批判について思うことを投稿させていただきます。

 批判の中で、ネット上などでよく見聞きするものが、「高森会長に絶対服従」とか、「排他的で意見を聞かない」などがあります。

 共通していることは、何か特定の価値観しか認めず、人にその価値観を強要する、その価値を認めない人を排除するのはおかしいではないか、と言うことでしょう。

 そのために、個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊して、別のものに置き換えているかのように思っている人が多いようです。

 価値観の多様化に伴い、「みんな右へならえ」「赤信号みんなでわたれば怖くない」といった時代から、「みんな違ってみんないい」「一人一人自分らしく、私らしく」が良いとされる時代に変わってきました。

 私自身も、価値の多様化を否定する者ではありませんし、実際価値観というのは、一人一人違うもので、まったく同じ価値観の人などありえません。

 趣味が共通する夫婦ほど離婚率が高い、と言う人もあります。同じ作家が好きだといっても、どの作品が一番好きか、同じ作品でもどこに一番感動したかということは、一人一人異なります。それを互いに自分が正しいと主張していては、うまくいくはずはないでしょう。
 本が好き、この作家が好きと言っても、このように異なるのですから、他人と同じ価値観になるということは考えられないことです。

 だから、「これだけが正しい」と主張すれば、それは偏った考え方だとされ、異なった価値観を持っている人は、自分の価値観を否定されたということで腹を立てることになります。

 また、全く違う価値観を持った人間が、同じ一つの価値観を共有するときには、それまでの価値観を否定しなければならない。だから、まったく同じものを信じることがあるとすれば、それは自分の考えを放棄した、いわゆる「盲信」だ、そんなもので幸せになれるはずがない、という意見も出てきて当然です。

 私は、自分の考えを放棄して、別の言葉で言えば、思考停止した「盲信」で幸せになれるとは、全く思いません。

 事実、親鸞会では常に「仏教は、合点が大事だ」と教えていただいています。
 合点とは、自分の頭でよくよく考え、仏教の教えを正しく理解し、納得することです。思考停止とは、納得できないけれども、そういうものなんだと、思考をストップすることですから、合点とはまったく逆のものです。

 わからんけれど、黙って聞いてさえおれば救われるというのなら、これほど単純な話はありません。そんな教えを説かれたのが親鸞聖人なら、どうして多くの人から尊敬されるでしょうか。
 そうではないのです。

 むしろ「人生の目的なんてあるわけない。考えてもムダ」とか、「死んだらどうなるか、なんて死んでみなけりゃわからない」とあきらめて、ごまかしながら生きることの方が、人間として最も大切な思考を停止しているのではないでしょうか。

親鸞会館

 親鸞会の会館では、高森顕徹先生のご法話が毎月開かれています。そのご法話の後に、同朋の里で、参詣された方が信心の沙汰をしていることは、機関紙の顕正新聞に毎回のように紹介されています。

 蓮如上人は「信心の沙汰をせよ」と勧めておられるのです。

 信心の沙汰とは、仏法を聞いて、よく分からなかったところや、自分はこう聞いたけれどもそれで正しかったのかと言うことを、複数の人間で集まり話し合うことです。

 私も、所属している支部の信心の沙汰に参加しています。親鸞聖人の教えは、大変深いので、こんなものだろう、とか、そういうもんなのだという曖昧な理解でよいというものではありません。
お互いが、話し合い、講師の先生にも参加してもらい、自分自身よく分かった、納得した、腑に落ちたと、合点するところまで話し合います。
 納得しなければ合点したことにはなりませんので、思考停止している人がかりにあったら、それでは仏法を聞いたことにならないと、教えてあげることが出来ます。

 こう言っても、結局は一つの価値観に押し込めるのではないかと思う人もあるでしょう。

 しかし、世の多くの人々が讃仰する親鸞聖人が教えられた、真実とは、そんなものとは全く違うと、私は思います。

 親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にないことを聖人は、

「願成就、一実円満の真教、真宗是れなり」(教行信証)

と言われています。

(本願成就文の教えは、大宇宙でたった一つの真実の教えであり、完全無欠で欠点のない教えであり、真実の教えであり、真実の宗教である。)

 親鸞聖人の教えは世界の光、といつも親鸞会で聞かせていただいております。その親鸞聖人の教え、イコールお釈迦様がこれ一つ教えられた本願成就文の教えこそ、真実であると、何度も「真実」という言葉を繰り返して教えられています。

 親鸞聖人が教えられ、親鸞会で説かれる真実とは、一般の人が使う真実とは意味が違うと思うのです。

 裁判のニュースなどで、原告側が、「事件の真実が知りたい」といいます。その「真実」は、事件の現場で、実際に何があったかという事実関係であり、そういう真実は、人によって、いろんな事柄ごとに、それぞれ異なった真実が存在すると言うことになります。
 親鸞聖人の「一実」(たった一つの真実)とは、全く意味が異なります。

「みんな違ってみんないい」「一人一人私らしく」
これらは、数ある価値観の一つです。その人その人の価値観は、その人にとっての真実なのかも知れません。

 しかし、親鸞聖人の言われる真実とは、個人の経験や、学問、才能などによって形成される、「私はこれを真実だと思うから真実」という価値観の一つとは全く異なります。

 個人の価値観で正しいとか、間違いと判断できるものとは、全く違う次元での真実を、親鸞聖人は教えられたのだと思います。

 もし、親鸞聖人の言われている「真実」が、数ある価値観の一つなら、救われた人は、以前の価値観が否定、破壊され、別の価値観に置き換えられるということになります。そうなれば、救われた人は、工場の規格品のように、同じ考え、同じ行動をとるようにならなければなりません。

 そう思うからこそ、盲信だとか、思考停止だという批判が起きるのだと思いますが、私はその批判は、まったくピントがずれていると思います。

 親鸞聖人は、その真実を知らされ、真実を獲得された世界を、正信偈にこのように教えられているからです。

「凡聖逆謗斉廻入
  如衆水入海一味」

(凡・聖・逆・謗、ひとしく廻入すれば、衆水の海に入りて一味なるがごとし)

「真実を獲得(ひとしく廻入)し、人生の目的が完成すれば、万川の水が海に入って一味になるように、才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ」

と言われています。

 弥陀に救われた世界は、個々人の価値観とは関係ない世界なのだということです。

 救われた世界が万人共通だからといって、その人の価値観や考えまでが共通になるのではありません。

 少し長文になりましたが、親鸞会会員の一人として感じたことを、投稿させていただきました。

 真実を獲得した世界はもちろんですが、真実を求める道のりも、思考停止してはすすめない、教えを正しく合点しなければ進めないと、いつも教えていただいていることを、重ねて皆さんに知っていただきたいと思います。

 批判される方の、ご参考になれば幸いです。


>>親鸞会 会員の声一覧