「誤解された歎異抄」を読んで(1/2)

歎異抄の解釈本の出版が相次いでいます。
以前に出たもので有名なのが、『誤解された歎異抄』(梅原 猛著・平成2年)です。
その後も梅原猛氏は、「梅原猛の『歎異抄入門』」も出版しています。

以下は、『誤解された歎異抄』を読んだ、親鸞会の会員が、真宗大谷派富山教務所に、本の内容について質問をしたやり取りです。

 

疑問点1「念仏か、信心か」

平成四年三月六日。
親鸞会会員Aと、真宗大谷派富山教務所員S氏との問答。

「私は、親鸞会の会員でAといいます。早速ですが、最近読んだ、哲学者、梅原猛氏の『誤解された歎異抄』という本の中の疑問点について、お尋ねします。梅原氏は、

『人はその生前において一回ないし、十回の念仏を唱えれば、すべての人は、極楽浄土に往生できるということになる』

と説いています。また、梅原氏は、

『教行信証には、まったく地獄のことが説かれていないのである。歎異抄に『地獄は一定すみかぞかし』といっているが、これは現世のことである』

とも言っています。これらの文章に疑問を感じます。

まず、念仏を一回ないし十回、称えれば、極楽に往生できるということですが、これは正しいのでしょうか」

こう聞きながらも、これを肯定すれば、まさに称名正因の異安心(念仏さえとなえていれば助かるという間違った考え)、まさか、そんな愚かな答えはあるまいと思ったが、聞いてびっくり。

「教えが、そういう教えになっていますよ」

それが親鸞聖人の教えだというのだ。

「一回ないし十回とは、一回の念仏でもよいということですか」

「そうです。法然上人の時から、そのように教えておられたようです」

法然上人にさかのぼってしまった。親鸞聖人の教えを伝える真宗大谷派の筈なのに。

「梅原氏の『誤解された歎異抄』というのは親鸞聖人について書かれた本です。法然上人のことを聞いているのではないのです」

「では、親鸞会で話を聞いている、あなたはどう思われるのですか」

「私は、自分が体験的に念仏を十回称えても、極楽に往生できるとは到底思えません。間違っていると思います。
梅原さんのような著名な人がなぜこんな事を書いているのか、理解できない所です。梅原氏は、歎異抄を根拠に言っているのですか」

「いや、観無量寿経、阿弥陀経、大無量寿経などの仏典が根拠と思います」

「経典のどこにそのような事があるのですか。親鸞会のご法話では、常に根拠が示されますが。」

「そう言われても勉強不足で、僕にはお答えできませんが。しかし、仏典によらねばそんな事は出て来ないでしょう」

二種の念仏を知らない

「念仏は、どんな称え方でもよいのですか」

「そうです。口に称える称名です」

歎異抄の「ただ念仏して」の一語が、断言の根拠になっているらしい。

「では、親鸞聖人が、法然上人門下におられた時、信行両座の諍論をなされた事をどうお考えですか。信心ひとつで助かる信不退の座と、念仏で助かる行不退の座を分けて、いずれが真実かを問われたのが、信行両座の諍論ですよ。法然上人も親鸞聖人も、信不退の座に入られ、信心ひとつで救われる、と示しておられます。念仏を称えたら助かるというのは、大変な間違いです」

「どうしてですか」

「行の座は間違いだと示されているではないですか」

「いや、念仏のことを信不退と言っているではないですか。信がなければ、行が成り立たないのだから、信行不離といって、行も信も離れられないのです。信と行が一つになっているから、初めて、念仏がでてくるのです」

念仏を称えている人には、すでに信が離れられず、ついているという。他力の念仏なら、信は具足しているが、無信単称の自力念仏を知らないのだろう。

「信があって、念仏がでてくるのです」

「では、信のない行、というものは、ないと言われるのですか」

「いや、あるのじゃないですか」

信があって初めて念仏がでる、と言った舌の根も乾かぬうちに確認されれば、しぶしぶ。「信のない行もある」と返答する。

念仏に自力、他力と二通りあるとは親鸞聖人が、徹底して教えられた所なのに少しも強調されない。
こんな教え方では、門信徒はみな、ただ念仏さえ称えれば極楽に往生できる、と迷っていくのは当然だろう。

いい加減な説き方

「もし、信のない念仏を認めるならば、梅原氏の『一回ないし十回の念仏称えればすべての人は極楽往生できる』という文章は間違いになるではないですか」

「いや、梅原さんは、信がない念仏、とはどこにも書いてないから、間違いとは、言えないでしょう」

念仏を称えたら助かる、と強調する点では、同類であるだけに、梅原氏を間違っているとは、言えないのだ。

「問われれば、信のある念仏と言うというのでは、そんな事知らない人は、みな、ただ念仏さえ称えれば助かると迷ってしまう。そんな説き方が許されると思っているのですか」

「簡単に、分かりやすくするために梅原先生がそんな書き方をしたのではないですか。
もっと丁寧に書いてもらいたいと思いますが」

「では、大谷派の純粋な教えから言ったら、どう書くべきですか」

「条件的な事ではいかんのです。念仏称えたら浄土に往けるとか、そうではなくて……」

そうではなくて、どうなのか。

「あくまでも、念仏によって浄土に往かさせていただくのだ、そういう姿勢であるべきだと思います」

「往ける」でなく「往かさせて頂く」ならいいと言う。これではまったく意味がない。

教えに昏い・富山教務所

「蓮如上人の『御文』には

『口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思へり。それは大きに覚束なき次第なり』

と説かれています。口でただ念仏を称えているだけでは極楽往生できない、と教えられているのに、どうして念仏によって浄土に往かさせて頂くなどと言えるのですか」

「それは説かれています。
だけど『ただ口に称名ばかり』 と言っていますから『信がない』称名を称えても助からんということです」

「信後の称名はご恩報謝ですから、親鸞聖人は、信心為本を説かれ、蓮如上人も、

『聖人一流のこ勧化のおもむきは信心を以って本とせられ候』

といわれているのです。
あなたは、信ある称名、とはどんなものと思っておられるのですか」

「信ある称名ねえ……」

「信心とは如何なるものですか」

「阿弥陀さまを疑いなく信ずるということですね」

「どうしたら阿弥陀仏を疑いなく信ずることができるのですか」

「どうしたらそうなれるのか、分かっていれば、僕がやっていますよ」

どうしたら信心が獲られるのか。それが分かっていれば実行している、と言う。裏をかえせば、まったく分かっていないから何もしないのだろう。

親鸞聖人が、

たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
永く不退にかなうなり (浄土和讃)

と教えられ、蓮如上人が、「仏法は聴聞にきわまる」
と説かれた事を全く知らない。
そんな人物が、教務所員である。情けないことだ。

A「ご存知ないのなら、あなた自身、信のある称名は称えていないことになりますよ」

S「そうですね」

A「信ある念仏称えている人が、大谷派の中にいるのですか」

S「私の知り合いの中では、そんな人にお会いした事はないですが……」

自ら憶面もなく、無安心を告白している。正直と言えば正直だが。
信ある称名が大切と言いながら、いかにしたら、信心が獲られるか分からんでは誰も助からんのが真宗大谷派。
これでは、門徒がお気の毒という外ない。

 

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