親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い





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Top>>親鸞会と本願寺との違い>>ただちに質問状を提出
親鸞会 空白

ただちに質問状を提出


 親鸞会は、直ちに(昭和58年(1983)1月)公開質問7カ条を、本願寺へ提出いたしました。
 爾来、28年。

 「なぜ、そんなにまで、こだわるのか」
 「どうして、しつこく、糾すのか」
〝人生の大問題を決するものが「宿善」〟と、知らぬ方々の不審は、よくわかります。
 が、しかし、


「いづれの、経釈によるとも、すでに、宿善に限れりと見えたり」(御文章)


「弥陀に、帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらずということなし」(同上)


の、ご聖語をあげるまでもなく、「宿善」は、最も重要な、浄土真宗・親鸞聖人の教義であります。
 絶対、ウヤムヤに放置できない、〝どうすれば、救われるか〟の、大問題なのです。

 政治に妥協はあり得ても、正か、邪か、を決判する仏法、とりわけ、真仮廃立の厳しい、親鸞聖人の教義安心での妥協はあり得ません。
 幸い、とでもいいましょうか。
本願寺の『回答書』には、こう、言明されています。

 「私どもは、真実を顕わすことに、背を向けるものでは、決してありません」

 ならばなぜ、本願寺に対する公開質問状に、28年経過した現在に至るも、未だに答えてないのでしょうか。答えることができないからに他なりません。
 この事実は、時を重ねるほどに重みを増しています。

 生死の一大事は〝どうすれば解決できるのか〟

 すべての人にとって最も大切な問題を、この「宿善論争」から学んでいただきたいと思います。

本願寺の回答書は、「宿善について」の中で5つの非難をあげています。
ここではその核心である、第2の非難と、それに対する親鸞会の反論を紹介いたします。

(『本願寺なぜ答えぬ』<昭和59年 初春発行>より引用)



第2の非難とは?→