親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い





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親鸞会 空白

第2の非難―諸善は、獲信の因縁ならず―


(1)真実の歪曲は、許されぬ

 

 次に、本願寺親鸞会を非難する第2条は、こうである。

親鸞会は、宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない」(回答書(A)P・142)



 先述の、一条にも、

「高森親鸞会では、未信の者は、信心決定をめざして、今生において、善根を積み、宿善を厚くせよ、と勧める」

と、いやに力説なさる。
「諸善さえやれば、信心決定できる。まず、自力で善を励め」
〝これが親鸞会の主張だ〟と、印象づけたい思惑が、みえみえである。

 しかし、真実の歪曲は、許すわけにはゆかない。
〝どこをどう、本願寺がネジ曲げているか〟を指摘する前に、親鸞会の主張を、ここで明示しておく必要がある、と思われる。


親鸞会の主張


 首尾一貫、宿善について、親鸞会は次のように説き続けてきた。
言うまでもなく、仏法求める目的は唯一つ、後生の一大事の解決、以外にない。


「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)


 しかも、親鸞聖人のご金言通り、生死の一大事の解決は、阿弥陀仏しかできないことなのだ。
 その、阿弥陀仏の救済に絶対不可欠のもの、それが、宿善なのである。
このことは『慕帰絵詞』にも出ているし、宿善往生を唱えた覚恵法師と、信心往生を立てられた如信上人との、諍論によっても明らかだ。
 お聖教の明文も、歴々として指し示す。


「十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くが如く、過去の宿善厚き者は今生にこの教に値うてまさに信楽す、宿福なき者はこの教に遇ふといへども、念持せざればまた遇はざるが如し。『欲知過去因』の文の如く、今生の有様にて宿善の有無あきらかに知りぬべし」(口伝鈔)


『御文章』には、

「弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし」(4帖1通)


「無宿善の機に至りては力及ばず」(4帖8通)


「いづれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり」(3帖12通)

 ご臨末には、


「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思ひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐の心暫くも止むことなし」(4帖15通)



弥陀の救いは宿善まかせ→