親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





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親鸞会と本願寺の違い





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親鸞会 空白

浄土真宗の正しい御本尊は?


 親鸞会の主張

 御本尊は「名号にせよ」と教示なされた親鸞聖人に背いて、本願寺は木像を本尊としているのは、重大な誤りである。

 本願寺の反論

 親鸞聖人も蓮如上人も、お名号をお書きになって本尊とせられました。
けれども絵像や木像をご安置してはいけないとか「本尊はお名号にせよ」とはおっしゃっていないのです。
 事実、形像を礼拝の対象とされた例もあります。ご絵像・お木像にも、それぞれ意趣があるのです。
 だから、本願寺では「本尊は必ずお名号でなければならぬ」と固執は致しません。

どちらがウソか


 親鸞会は、かねてから浄土真宗の正しい御本尊は名号でなければならぬ ことをお聖教や、その他の根拠を挙げて主張し、木像や絵像を御本尊としている現今の本願寺や末寺の重大な誤りを強く指摘し続けてまいりました。

 ところが、本願寺は、真実の広まりを黙視できなくなったので、親鸞会に反論してまいりました。

 その反論では、親鸞聖人も蓮如上人も生涯名号のみを御本尊となされた事実をどうすることもできず、
「親鸞聖人も蓮如上人も名号を御本尊とされました 」
と、その事実を認めたのは一歩前進で一応評価できますが、なお、
「浄土真宗の御本尊は名号でもよし、絵像でもよし、木像でもよし、本願寺はそれらに固執いたしません」
と、現今の本願寺や末寺が本尊としている木像も誤りではないのだと強弁しております。

 

御本尊とは根本に尊ぶべきもの


 言うまでもなく御本尊とは、読んで字のごとく、根本に尊ぶべきものであり、宗教、特に仏教にとっては最も重要な意味を持つものであることは、何人も認めるところであります。
 されば浄土真宗の御本尊は、名号でも、絵像でも、木像でも、どちらでもよいというようないい加減なものでもなければ、時代によって変わったり、人に応じて替えたりするものでは断じてありません。
 事実、親鸞聖人も蓮如上人も名号しか御本尊として礼拝しておられず、私たちにも名号を御本尊とせよと教え勧められました。
 にもかかわらず、本願寺の反論は、
「親鸞聖人や蓮如上人は、木像や絵像ではいけないとか、必ず名号でなければいけないとは申していられません」
と、なおも己の邪道を押し通そうとしております。

 それではお尋ねしたい。

 親鸞聖人や蓮如上人が、
「真宗の御本尊は名号でもよし、絵像でもよし、木像でもよし、同じことだから一つに固執せず、どれでもよろしい」
と、どこにおっしゃっていられるのか。
 その根拠を教えていただきましょう。

 

本願寺の言い分が正しいとするならば


 もし、本願寺の言うように、親鸞聖人や蓮如上人が、名号でもよし、絵像でもよし、木像でもよし、一つに固執してはいけないと教えられたのが正しいとすれば、『改邪鈔』に、


「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず、必ず名号を本尊とせられた」


と書かれてありますが、覚如上人はウソを書かれたことになります。

 また、存覚上人の 『弁述名体鈔』にも、

「親鸞聖人はいつも名号を本尊となされた」


ことが書いてありますが、これもウソになります。

 また、慈俊の 『慕帰絵詞』第4巻には、

「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず名号ばかりを本尊としていられた」


と記してありますが、これもウソッパチになります。

 いずれも名号のみを御本尊とせられたと記録されているからです。

 また、親鸞聖人がそれまで寺院などで本尊としていた弥陀三尊の絵図などを、すべて捨て去り、ただ名号を御本尊となされた、その重大な意味も全く踏みにじられてしまいます。

 

蓮如上人の教えがナンセンスになります

 それだけではありません。蓮如上人のご教示にも明らかに違反することになります。

 蓮如上人は、『御一代記聞書』に、

「他流では、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。真宗においては、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」

とおっしゃって、浄土真宗の正しい御本尊は名号であることを明示なされています。

 この蓮如上人のお言葉は、本願寺の主張するように、名号も絵像も木像も、どれでも同じことだと言うことでしょうか。
 だから、どれを本尊にしてもよろしい、という意味なのでしょうか。
 もし、そのように本願寺が解釈しているとすれば、現今の本願寺は、易しい文章の解読力まで失ってしまったといわなければなりません。 

 言うまでもなくこれは、他流の者たちの教える本尊と、親鸞聖人の勧められた御本尊との相違をハッキリさせるために蓮如上人が、比較対照してご教示になったもので、同じく阿弥陀如来を本尊としている浄土門の人でも、木像を本尊としている者は他流であり、浄土真宗は名号を本尊とすべきであることを教えられたものであることは明々白々であります。

 

なぜ本願寺は木像に固執するのか


 本願寺はまた、名号でも絵像でも木像でも同じだから固執いたしませんといいながら、本願寺をはじめ2万を数える末寺は、みな木像を本尊としているものばかりですが、これは明らかに、木像本尊に固執している証拠ではありませんか。
 言っていることと、行っていることが矛盾しています。

「さよなら親鸞会」のサイトをつくった僧侶・瓜生崇氏自身の寺も、本尊は木像です。最も重要な本尊が親鸞聖人の教えと異なっていては、浄土真宗を語る資格はありません。まずは、自分自身が真宗の教えを1から学びなおすべきでしょう。

 彼の所属する真宗大谷派は、京都に本山のある東本願寺のことです。すでに、「浄土真宗」から「浄土」を削り、ただ「真宗」とかたっているように、真宗大谷派は死後の浄土を認めません。
 この世と死後の二度救われる二益法門が親鸞聖人の教えです。

 このことを蓮如上人は、『御文章』に次のように教えておられます。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」
答えていわく、
「一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば、二益なりと思うべきものなり」

(1帖目4通)

「弥陀の救いは一度でしょうか、二度あるのでしょうか」と問いを出し、 「この世は、弥勒菩薩と同格(正定聚)に救い摂られ、死ぬと同時に弥陀の浄土で、無上のさとり(滅度)が得られる。弥陀の救いは二度(二益)ある」 と答えられていることでも明らかです。

 聖人の教えに違反し、死後の救いを認めない大谷派は浄土真宗ではなく、もはや外道に成り下がっているのです。

 姿かたちは衣を着て、一応、僧侶の格好はしていますが、本願寺僧侶の語る言葉のどこにも聖人の教えはありません。
 瓜生氏が住職を務める玄照寺(滋賀県東近江市)の門徒も、親鸞聖人の教えでないことを聞かされている被害者です。御門徒は、親鸞聖人の教えを求めて、聞きに集まっているのです。聖人の教えでないことを話し、お布施だけはちゃっかり受け取る、ということでは搾取であり、詐欺でしょう。社会常識を逸脱した行為によって、自宅が家宅捜索を受けた事実を、悪びれた様子もなく公言している者に、仏のみ教えが説けるのでしょうか。親鸞聖人、蓮如上人の悲嘆の声が聞こえてきます。

 衣を着て、袈裟かけて、『正信偈』をあげてはいても、正しい教えを説かないから、門徒の信用を失い、門徒が離れ、悲鳴をあげている寺院の惨憺たる現状は、メディアでもたびたび報道されているとおりです。本願寺再起の道はただ一つ。正しい御本尊は御名号であることを明らかになされた親鸞聖人のみ教えをよくよく知り、教えにしたがう以外にありません。

 浄土真宗親鸞会は、生涯名号のみを御本尊とし、真宗の正しい御本尊は名号であることを教え、名号本尊を固く守られた親鸞聖人や蓮如上人に順って、御本尊は名号でなければならぬと守ります。
 親鸞聖人が何とおっしゃっていようと、蓮如上人が何と教えてあろうと、お聖教に何と書いてあろうとどうでもよろしい、ありがたいと思うものを本尊にすればよいのだ、と横車を押されるのならば、どれだけ大きな伽藍があっても、もはや浄土真宗ではないのです。

 

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