
親鸞会と本願寺の相違点
浄土真宗の正しい御本尊は?
×木像でも絵像でもよい
○御名号でなければならぬ
阿弥陀仏の救いについて
×ハッキリするものではない
○救われたら、 ハッキリする
助かるのはいつか
×死なねば助からぬ
○生きている時に助かる
救われたらどうなるのか
×この世で救われたということはありえない
○無碍の一道、絶対の幸福になれる
どうしたら助かるのか
×念仏さえ称えておればいい
○真実の信心一つで救われる
喜んでいること
×死んだらお助けを喜べ
○現在、助かったことを喜ぶ身になれ
念仏について
×念仏はみな同じだ
○自力の念仏では助からぬ。
他力の念仏を称える身になれ
使命としていること
×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
○本当の親鸞聖人の教えを伝えること
マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い
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第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
~(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ~
不当な誹謗中傷を明証で破る
それでは、自力の善根によって宿善開発(信心決定)させることが出来るのか、と間抜けは返難するかもしれない。
事実『伝道院紀要』には、
「高森親鸞会は宿善開発(信心決定)が自力で出来ると言っている」
と、丁度鬼の首でもとったように、繰り返す。
その後の彼我の往復書簡にも、そのことが顕著に出ている。
本願寺の、親鸞会中傷の、最も大きな点の1つである。
如何に不当な誹謗か、親鸞会発行の図書や、出版物によって、根拠を明示しよう。
出離の縁が、絶えた時
『顕正』(昭和33年発行)(P・84)
「『いずれの行も及び難ければ、とても地獄は一定すみかぞかし』
と、出離の縁が絶え果てたと、同時に、
『弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人が為なり』
と、知らされて、たちどころに、他力摂生の旨趣を受得し、
凡夫直入の、信心を決定なされたのだ」
捨自帰他が真宗の極意
『こんなことが知りたい』(1)(昭和44年発行)(P・108)
「親鸞聖人は、
『本願力をタノミて、自力を捨つるを唯信という』(唯信鈔文意)
と、仰せになっています。
蓮如上人も、魂の一大事を解決するには、
『一切の自力を捨てて、弥陀タノメ』
これより、我々の助かる道は、二つとないのだ、と仰有いました。
これが、浄土真宗の信心の極意なのです。
しかも、自力を捨ててから弥陀をタノムのでもなければ、弥陀をタノンでから自力を捨てるのでもないのです。
自力が廃るのと、弥陀をタノムのとは、一念同時なのです。
だから、弥陀タノムということは、
一切の、自力のはからいを捨てよ、ということなのです」