親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い





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親鸞会 空白

第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
~(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ~



こんな聞き誤りも


また、こんな聞き損いもいる。
「真宗では雑行を捨てよ、と嫌われるから、善を励むのは間違い」と。
雑行の物柄は、経には諸々の功徳と説き、釈には諸善万行といわれているから、そのもの自体が悪いのではない。

 心得が悪いから、嫌われるのだ、と知らないのである。
〝この善根で、悪い処へは行かないだろう〟と、往生の資助にする気持ちでやるから雑行と嫌われるのだが、物柄は諸善だから、やらねば善果が報うてくるはずがない。

 いうまでもなく、仏教の根本教理は因果の道理。善因には善果、悪因には悪果、自因は自果を必ず生み出す、という三世十方を貫く真理である。
 真宗には、〝我々に善がつめるか〟と、非難がましく言う者がいるが、やらねば善果は得られず、苦しむだけである。

 勿論、我々には、出来ることと、出来ないこと、とがある。
しかし、真剣にやろうとしない者には、どちらもハッキリしない。

 どうしても、やらねばならぬと、真剣にとり組んでみて、はじめて、出来ることと、出来ないこととがハッキリする。
 はじめから、どうにもならぬと決めこんで実地にやってみない者には、どちらも永久にハッキリすることはないのだ。

「名利の為に千金を投げ出すは、ヒゲを撫でるよりも易く、慈悲の為に一銭を出すは、生ヅメを剥がるるよりも痛し」

 実地やらずに、分かることでは、あるまい。
 親鸞会は「自力の善の積み重ねで、信心獲得できる」などと、主張したことは一度だってない。
(次は親鸞会発行の図書『本願寺の体質を問う』P・164―176までの引用)


観念の遊戯では、分からぬこと


 実地に、大菩提心をおこしてやったものでなければ、分かることではないのだ。
 やってもみない者が、やってもみない自力の善が、間に合わなかった、捨てものだったと、どうして分かろうか。どうして言えようか。
 自身にやった経験もなければ、自力無功の苦しい体験もないから、
「過去に修した自力の善は、あくまでも捨てものとするのである」
と、まるで他人ごとのようなことを言っている。

 これでは、やったことと、それによって知らされたこととの因縁(宿善)が、分かろう筈がないから、
「遠く宿縁を慶ぶ」
心も分からなければ、
「宿善有難し」
の尊さも、分かろう筈がない。

 合点と体験は、雲煙万里の違いがある。
 やってもみずに合点して、机上の空論、観念の遊戯をしている者が、
「破邪顕正や財施が宿善になるという親鸞会は間違いだ」
と非難しているのだから、ちょっと追究されると、すぐに返答に窮するのも、不思議ではない。



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