親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い





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Top>>親鸞会と本願寺との違い>>これでは、真宗の衰退は当然
親鸞会 空白

第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
(4)「諸善も獲信の因縁」の、文証を求める本願寺



これでは、真宗の衰退は当然


 そして、上品上生から下品下生まで、九品の往生を説いて、〝どの善根ができるかな〟と心を覗く。
 これもできない、これもできないと、実地に知らせて、最後に〝下品下生の私でございました〟と、真実の自己を照らし出す。

 機の真実を説くと、だから、『観経』はいわれるのだ。
その上で〝下々品をお救い下さるのは、阿弥陀仏しかないぞ〟と教えられるのだから、邪見驕慢の極悪人が、弥陀の本願に救われる、善巧方便に違いない。

『観経』の、定散二善三福九品のみ教えも、本願寺サンには、善を廃し悪をすすめた文証としか見えないらしい。〝定散二善が、韋提希の獲信に無関係〟とするならば、〝説かれた目的はなんのため〟と、反問したい。

 因果の道理は宇宙の真理、善因善果、悪因悪果、自因自果には、寸分の狂いもない。
 分かっただけでは、観念の遊戯に終り実行しなければ、善果は得られぬ。

〝善根を積む必要はない、修善をすすめるのは間違いだ〟といっているから、無宗教の家庭よりも、外道の者よりも、不幸は続くし、貧乏はする、病気にはなる、災難は重なる。
 真宗の教えを聞いていない者の方が上等の生活をして、真宗の門徒が、〝この世の罹厄きわもなし〟で〝不可称、不可説、不可思議の苦毒〟に泣いているのだ。

 普通の人でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに〝善根を修する必要がない〟と、平気で横着を教えているから、悪報は眼が廻るほどやってきて、業苦に責めたてられるのは理の当然である、ことにお気づきにならない。

 それどころか、親鸞会の修善のすすめを非難なさっているのだから、評する言葉もあるまい。



(5)「十九願や定散二善は獲信の因縁」の根拠→