親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い





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Top>>親鸞会と本願寺との違い>>あまりにも、ひどい中傷
親鸞会 空白

第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
~(2)宿善薄き者は、どうすればよいか~


あまりにも、ひどい中傷


 このような師主知識の教化を仰ぎ、親鸞会は、始終、過去世に聞法少なき者は、今生で、真剣に聴聞を重ねなければならない、と説き続けてきた。

 暑ければ、聞法中でも扇子を使い、足が痛めば、何時でも投げだす。飲みたくなれば、聴聞中でも煙草をのみ、ねむたくなれば、前後不覚に舟をこぐ。
 近くに法筵があれば詣るが、少し遠方だと詣る気を失う。
こんな聞法で、信心獲得できる筈がない。
 親鸞聖人、仰せになっているではないか。


「たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、
 仏の御名をきく人は、ながく不退にかなうなり」


「ながく不退にかなう」
とは、
 永久に変らぬ安心と満足、絶対の幸福になることで、信心獲得の体験である。では、どんな人が「ながく不退にかなう」のか、

〝大宇宙に充満している、火の中も、くぐりぬける覚悟で聞法する人は〟
である。
 居眠り半分に聞いて獲得できる信心ではない、と仰有っている。

 これら善知識方の仰せを、そっくりそのまま説き続けている親鸞会を、
「まず諸善をつめ、諸善さえつめば、信心獲得できるとすすめる」
と、非難なさるのである。

 子供でもクビをかしげるようなことを、本願寺はヌケヌケと仰有る。
 親鸞会を少しでも、知っている者は驚き、かつは呆れるのも、無理はなかろう。
 もっともらしく書きつらねてある、回答書のすべてが、こんな調子で事実を知るものからすれば噴飯ものなのだ。

〝論より証拠〟といわれる。
「聞法はすすめている」と胸を張られる、本願寺の本堂はガラガラでも、非難受ける親鸞会は、年中どこでも会場難で、主催者は頭を悩ます。
 折角、探しあてた広い会場も、人で溢れてたちまちパンクするからだ。

 たとえ親鸞会の著書や講演を知らずとも、この事実が、最も雄弁に証明するだろう。
「親鸞会は、諸善さえつめば、信心獲得できるとすすめる」
という本願寺の非難が、いかにデタラメな中傷か、ということを。

 あまりにもひどいウソを、とりあえず指摘し、本願寺の注意と責任を喚起しておく。


(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ→