
親鸞会と本願寺の相違点
浄土真宗の正しい御本尊は?
×木像でも絵像でもよい
○御名号でなければならぬ
阿弥陀仏の救いについて
×ハッキリするものではない
○救われたら、 ハッキリする
助かるのはいつか
×死なねば助からぬ
○生きている時に助かる
救われたらどうなるのか
×この世で救われたということはありえない
○無碍の一道、絶対の幸福になれる
どうしたら助かるのか
×念仏さえ称えておればいい
○真実の信心一つで救われる
喜んでいること
×死んだらお助けを喜べ
○現在、助かったことを喜ぶ身になれ
念仏について
×念仏はみな同じだ
○自力の念仏では助からぬ。
他力の念仏を称える身になれ
使命としていること
×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
○本当の親鸞聖人の教えを伝えること
マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い
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第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
(4)「諸善も獲信の因縁」の、文証を求める本願寺
観経のすすめも、やはり諸善
弥陀の19の願意を、釈尊が、『法華経』を中止してまで開説されたのが、王舎城の悲劇で有名な『観無量寿経』である。
吾子ほしさに占いに迷い、〝とても3年は待てない〟と、夫ビンバシャラ王をそそのかし、修行者を殺害させた韋提希夫人。
因果の道理に狂いなく、自分が産んで育てた阿闍世によって牢に入れられ、悲泣悶絶する。
察知された釈尊が、今の地獄にのたうつ者こそ、弥陀の本願のお目当てと、自ら、王宮に降臨なされ『観無量寿経』を説き給う。
慈顔あふるる釈尊に、邪見と自惚れの韋提希は、こんな愚痴を言い放つ。
「お釈迦さま。提婆は、あなたと従兄弟でありながら、あなたを殺そうとしています。私は、産んで育てた子供のために殺されようとしています。
なぜこの世は、こんな苦しい世界なのでしょう」
苦しくなると、誰しもが、蒔いた種を一切忘れて、愚痴を言うて八つ当たりするもの。 我身知らずの愚かさを、どう知らせたらよかろうかと、
しばらくは釈尊、無言の説法。
やがて、
「韋提希よ、汝はどのお浄土へゆきたいか」
と、二百一十億の諸仏の浄土を見せられる。
「本師本仏の、弥陀の浄土が一番好きです。どうすればゆけるのか、教えて下さい」
一生造悪の極悪人が臆面もなく、こういいのける。まさしく、地獄必定の相がここにある。
韋提希は、しかしまだまだ、気がつかない。
「西方に向かって端座して、この観法をすればよい」
十三の定善観を説きながら、〝できないことが、まだ分からんか〟と、種種に釈尊は方便なさる。
努めようとすればするだけ、ふきあがる〝阿闍世のチクショウ〟〝提婆のガキめ〟怒りと憎しみの心を、反省させ、
「韋提希よ。定善ができねば、心の乱れたままでいいから、散善をやってみよ」
と、廃悪修善をすすめていられる。