
親鸞会と本願寺の相違点
浄土真宗の正しい御本尊は?
×木像でも絵像でもよい
○御名号でなければならぬ
阿弥陀仏の救いについて
×ハッキリするものではない
○救われたら、 ハッキリする
助かるのはいつか
×死なねば助からぬ
○生きている時に助かる
救われたらどうなるのか
×この世で救われたということはありえない
○無碍の一道、絶対の幸福になれる
どうしたら助かるのか
×念仏さえ称えておればいい
○真実の信心一つで救われる
喜んでいること
×死んだらお助けを喜べ
○現在、助かったことを喜ぶ身になれ
念仏について
×念仏はみな同じだ
○自力の念仏では助からぬ。
他力の念仏を称える身になれ
使命としていること
×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
○本当の親鸞聖人の教えを伝えること
マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い
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救われたらどうなるのか?
親鸞会の主張
「阿弥陀仏に救われたら無碍の一道、絶対の幸福になれる」と教えられた親鸞聖人に反して、本願寺は「この世で救われたということは、ありえない」と布教しているのは、大変な誤りである。
本願寺の反論
現在この世で、仏のさとりを開くのではありません。仏となるべき身(正定聚)にならせていただくのです。
本願寺は「この世で救われたということは、ありえない」などとは少しも言いません。
どちらがウソか
「阿弥陀如来に救われたらどうなるのか」
ということについて浄土真宗親鸞会は、
「絶対の幸福になる」
と主張してきました。
それに対して本願寺は、
「この世で救われたということは、ありえない」
と親鸞会を非難し続けてまいりました。
ところがこのたび本願寺は、
「現在この世で、仏のさとりを開くのではありません」
「仏となるべき身、
と言い、
「本願寺は、この世で救われたということはありえないなどとは、少しも言ってはいません」
と主張するようになりました。
救われたらどうなるのか
今まで「死なねば助からぬ」と主張し続けてきた本願寺が、
「この世で救われたということはありえないなどとは、少しも言いません」
と
「この世で救われたということがある」
と言わざるをえなくなったのは有り難いことですが、では
「救われたらどうなるのか」
ということについては、ただ
「仏になる身、正定聚にならせていただくのです」
とだけ言っています。
では、仏となるべき身、正定聚になるとは、どんなことになるのか。正定聚にならぬ前と、正定聚になってからとは、どこがどう変わるのか。どこも変わらないのか。
また、正定聚の身になれば、
「自分は仏になるべき身、正定聚になった」
とハッキリするのかしないのか。
本願寺は
「救われてもハッキリ分かるものではない」
と言っていますが、それでは、仏となるべき身、正定聚になっても、なったのやら、ならぬのやら、さっぱり分からないことになります。
正定聚の身になるとは、そんな曖昧模糊としたものなのでしょうか。
正定聚の身になってもハッキリしないのか
正定聚の身とは、仏のさとりに最も近い、等覚というさとりを得ている弥勒菩薩と同等の身になり、今生終わると同時に弥陀同体の仏になる位であると親鸞聖人はおおせになっていますが、そんな素晴らしい身になっても、ハッキリ分からないものなのでしょうか。
それでは親鸞聖人が、正定聚の人は、どんな人たちから、どのような非難を受けても、微動だにもしない金剛の信心になると教えられていることが、真っ赤なウソになります。
また、親鸞聖人は正定聚の身にならない前は、苦悩渦巻く黒闇の人生であったが、正定聚の身になってからは、明るく、広い、無碍の人生になったとおっしゃっていますが、これは阿弥陀如来に救われたら、最高無上の幸福な身になれるということで、私たちは絶対の幸福といっています。
本当の親鸞聖人の教え
本願寺は今まで、
阿弥陀如来はこの世で助けてくだされる。助かったら、苦悩の人生が光明の広海に転じ変わるのだから、早くその身になるまで聞けよと教えてきたでしょうか。
阿弥陀如来に救われたら、この世から限りなき利益を頂き、心は浄土に遊ぶ身になれると教えてきたでしょうか。
「この世はどうにもなれない」
とばかり聞かされて来たことは、何よりも大衆が承知しています。
本当の親鸞聖人の教えの広がりに、シブシブながらも、
「仏になるべき身、正定聚にならせていただくのです」
と言わずにおれなくなりましたが、もっともっと本願寺が正しい親鸞聖人の教えを説かずにおれないようにしなければなりません。