親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い





作者へメール


Top>>親鸞会と本願寺との違い>>念仏について
親鸞会 空白

念仏について


 親鸞会の主張

 自力の念仏では助からぬ、他力の念仏称える身になれと教えられた親鸞聖人に反して、本願寺は「念仏はみな同じだ」と主張しているのは、重大な誤りである。

 本願寺の反論

 自力の念仏は化土にとどまり、他力の念仏こそ真実報土に往生すると説いています。
 ただし、他力の信をえた上のお念仏は、だれが称えてもかわりはありません。同一念仏無別道であり、ともに同朋であります。

どちらがウソか


「お念仏を喜びましょう」
「念仏相続こそ肝要」
と、口さえ開けば念仏念仏と、念仏さえ称えていればみな助かるように教えている本願寺に対して、念仏に自力の念仏と他力の念仏があるのですよ。自力の念仏は、いくら称えていてもおぼつきませんよ。
 なぜ、自力の念仏と他力の念仏の相違点を教えないのですか。
 自力の念仏と他力の念仏との区別を立てず、念仏ばかりを勧めているから門徒衆は、ただ念仏さえ称えていればよいのだと思っている人ばかりではありませんか。
 それは、念仏に自力と他力の区別のあることを教えず、念仏はみな同じものだと教えているからではありませんか、と親鸞会は指摘しているのです。
 それに対して本願寺は、
「自力の念仏は化土にとどまり、他力の念仏こそ真実報土に往生すると説いています」
と、念仏に自力と他力の念仏のあることを認め、区別して教えているかのように反論してきました。

 

果たして本当か


 しかし、事実はどうか。
 本願寺は、念仏に自力と他力の念仏の区別を立てて、自力の念仏では助からないと教えているでしょうか。
 それなら当然、自力の念仏と他力の念仏の違い目を明らかに教えていなければなりません。
 ところが、永年寺参りしてきた人たちも、そんなことは聞かされたことがないと言う人ばかり。
 それもそのはず、尊いお念仏に自力も他力もないと教える布教使がほとんどではありませんか。
 いくら本願寺が念仏に自力と他力の念仏があるという親鸞聖人の教えを持ち出しても、そのとおり説いてはいないのです。
 否、説けないのです。
 なぜならば……以下その理由を明らかに致しましょう。

 

本願寺が説けない理由


 念仏に、自力と他力の念仏のあることは、真宗の教義上認めざるをえないから、
本願寺は、念仏に自力の念仏と他力の念仏があると説いています」
と反論はしてみたものの、では自力の念仏と他力の念仏との違いはどこか、と突っ込まれるとどうするか。
 口で称えている念仏だけでは、それが自力の念仏やら他力の念仏やら、外面からは全く区別が立ちません。
 それはちょうど、涙を流している人があっても、それが悲し涙やらうれし涙やら分からないのと同じです。
 心は天地の相違があっても涙だけでは分かりません。
 その涙が悲し涙かうれし涙かは、泣いている人の心によって分かれるのです。その心が決め手となります。
 自力の念仏か、他力の念仏か、それも念仏を称えている人の心によって決まるのです。
 本願寺は、自力の念仏と他力の念仏があるとは言っていますが、こんな心で称えているのが自力の念仏、こんな心で称えているのが他力の念仏と、ハッキリ教えているでしょうか。
 親鸞聖人や蓮如上人のご教示のように、阿弥陀如来に救われたうれしさに称えずにおれないのが他力の念仏であり、救われた自覚のない者の称えている念仏は自力の念仏というのです。
 本願寺は、救われてもハッキリするものではないと言っているのですから、救われたうれしさに称えずにおれない他力の念仏など分かろうはずがありません。

 

木によりて魚を求めるが如し


 夢覚めて初めて夢が夢とハッキリ分かるように、救われて初めて救われたうれしさに称えずにおれない他力の念仏を体験して、救われない前の自力の念仏との大違いを知らされるのですから、救われてもハッキリするものではないと主張している本願寺が、自力と他力の念仏の違いを教えられるはずがないのです。
 親鸞聖人の教えのとおり、自力の念仏と他力の念仏との違いを教えようとすれば、弥陀に救われない前と、救われた後との水際をハッキリ教えなければなりません。
 救われても分かるものではないという本願寺に、そんなことを求めるのは木に登って魚を求めるに等しいことでしょう。
 信前信後の水際を教え切らない本願寺は、所詮は自力と他力の念仏の違いも教え切れるものではないのです。


親鸞会と本願寺の相違点 一覧