
親鸞会と本願寺の相違点
浄土真宗の正しい御本尊は?
×木像でも絵像でもよい
○御名号でなければならぬ
阿弥陀仏の救いについて
×ハッキリするものではない
○救われたら、 ハッキリする
助かるのはいつか
×死なねば助からぬ
○生きている時に助かる
救われたらどうなるのか
×この世で救われたということはありえない
○無碍の一道、絶対の幸福になれる
どうしたら助かるのか
×念仏さえ称えておればいい
○真実の信心一つで救われる
喜んでいること
×死んだらお助けを喜べ
○現在、助かったことを喜ぶ身になれ
念仏について
×念仏はみな同じだ
○自力の念仏では助からぬ。
他力の念仏を称える身になれ
使命としていること
×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
○本当の親鸞聖人の教えを伝えること
マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い
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第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
~(1)真実の歪曲は、許されぬ~
弥陀の救いは、宿善まかせ
弥陀の救い(信心獲得)を、宿善まかせ、とまで仰せになっている。
病気になれば医者まかせ、船に乗れば船頭まかせ、飛行機に乗ればパイロットまかせ、という。
まさに、一生参学の大事は、宿善の有無によって決する、
との、ご教示である。
かかる宿善の重要性を知らねば、親鸞会と本願寺の宿善論争を、
「なぜそんなにまで、こだわるのか」
「どうして、しつこく糾すのか」
と不思議に思うのも、無理はない。
しかし、真実の仏法を心得ている者は、生死の一大事を決する大問題と、ちゃんと、分かっているはず。
それらの人達には、当然、
〝宿善とは何ぞや〟
ウヤムヤで放置できる問題では、なくなるのである。
宿善とは、何ぞや
本願寺の論文にも述べるように、宿善とは、宿世の善根のことであり、阿弥陀仏に救われる(信心獲得)因縁をいう。
宿世の善根を、大きく分けると、宿因と、宿縁になる。
宿因とは、過去にやった諸善万行をいい、宿縁は、阿弥陀仏のご念力で結ばさせられた仏縁をいう。
親鸞聖人が、
「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)
と、感泣され蓮如上人は、
「『宿善めでたし』と言うはわろし。御一流には『宿善有り難し』と申すがよく候」(御一代記聞書)
と、仰せになっているものである。
道綽禅師は『安楽集』に、
「三恒値仏の因縁」
を、説いて、
〝三恒河沙の諸仏の出世のみもとにあって、仏縁を結んだ者でなければ、この法にあえないのだ〟
と、仰せになっている。
以上で判明するように、過去に仏縁あって、聞法や諸善を積んできた人を、宿善ある人といい、そうでない人を無宿善というのである。
されば、宿善ある人といっても、各自、過去の業縁まちまちであるから、宿善は一定ではありえないことは、明らかだ。
あの人は、宿善の厚い人、薄い人、と言われるように、宿善の厚薄、浅深の不同は避けられないのである。
宿善の厚い人を頓機、宿善の薄い人を漸機という。
宿善の厚い人は、僅かな法筵に遇って、頓く、宿善開発して救われる(信心獲得)から、頓機といい、宿善の薄い人は、法筵を重ねて、漸く、宿善開発(信心獲得)するから、漸機といわれるのである。
丁度、枯松葉と青松葉のようなもの。枯松葉はマッチ1本で火がつくが、青松葉は、ブスブス水をはじいて、なかなか火がつきにくい。
同様に、宿善の厚い人は、枯松葉のように仏心の火がつき、頓く宿善開発して、仏凡一体と燃えあがる。
宿善薄き人は、昨日もカラボコ、今日も落第、どう聞けばよいのかと、ブスブス小言ばかりいって流転する。