親鸞会と本願寺の相違点
浄土真宗の正しい御本尊は?
×木像でも絵像でもよい
○御名号でなければならぬ
阿弥陀仏の救いについて
×ハッキリするものではない
○救われたら、 ハッキリする
助かるのはいつか
×死なねば助からぬ
○生きている時に助かる
救われたらどうなるのか
×この世で救われたということはありえない
○無碍の一道、絶対の幸福になれる
どうしたら助かるのか
×念仏さえ称えておればいい
○真実の信心一つで救われる
喜んでいること
×死んだらお助けを喜べ
○現在、助かったことを喜ぶ身になれ
念仏について
×念仏はみな同じだ
○自力の念仏では助からぬ。
他力の念仏を称える身になれ
使命としていること
×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
○本当の親鸞聖人の教えを伝えること
マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い
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第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
~(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ~
自力無功の体験
『こんなことが知りたい』(1)(P・116)
「自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた、阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫くのです。
『ただのただもいらんただであったか、他力とは、こんな楽な世界とは、知らなんだ、知らなんだ』
と、おどり上がるのです。
自力一杯、求めたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。
どうにもなれない自分だと、頭で合点しているのと、
自力、間に合わなかったと知らされて、地獄へ叩きおとされたのとは、天地の違いがあります。
自力無功を体験しない者に、自力が廃ったということがありましょうか。
自力が廃った、一念の体験のない者に、他力にまかせ切った妙味など、分かる筈がありません」
機法とも無疑になったのを二種深信という
『顕正新聞』(178号)(昭和53年3月20日発行、「二種深信」を述べたところに)
「信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも分からぬ心一つが、業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時、(機の深信)
自力無功と、他力不思議とは、同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍と、おどり上がり、
阿弥陀さま、こうまでして下さらなければ、聞かない、渋太い私でございました(法の深信)
どうして、この御恩に報いようかと、泣くより外にないのです。
このように、堕ちるに間違いなし、助かるに間違いなしと、機、法、共に、ツユチリ程の疑心もなくなったのを、二種深信というのです。
しかも、この二種深信は、堕ちるままのただじゃったと、弥陀と一体になった一念に同時に体験され、念々に相続致しますから、二種一具の深信といいます。