
親鸞会と本願寺の相違点
浄土真宗の正しい御本尊は?
×木像でも絵像でもよい
○御名号でなければならぬ
阿弥陀仏の救いについて
×ハッキリするものではない
○救われたら、 ハッキリする
助かるのはいつか
×死なねば助からぬ
○生きている時に助かる
救われたらどうなるのか
×この世で救われたということはありえない
○無碍の一道、絶対の幸福になれる
どうしたら助かるのか
×念仏さえ称えておればいい
○真実の信心一つで救われる
喜んでいること
×死んだらお助けを喜べ
○現在、助かったことを喜ぶ身になれ
念仏について
×念仏はみな同じだ
○自力の念仏では助からぬ。
他力の念仏を称える身になれ
使命としていること
×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
○本当の親鸞聖人の教えを伝えること
マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い
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第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
(5)「十九願や定散二善は獲信の因縁」の根拠
蓮如上人のご文証
如来のこれらの願心を、蓮如上人はこう説かれる。
獲信までの道程で、十九願(自力の善根)を励んでいるのを雑行、二十願(他力の中の自力)を雑修といい、二願の相手の共通悪は、自力の心だから、
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」
十八願(他力の中の他力)まで進みなさい、と。
まこと、三願の真仮を道破して、余すところがないではないか。
それでも、真仮を知らざるは悲しきもの。
本願寺の『回答書』は、堂々と、こうのたもう。
「『自力一杯求めたことのない者に、自力無功と知られるはずがない』というのであれば、如来のお救いにあずかるためには、みな捨家棄欲と出家して聖道自力の修行から実践せねばならないというのであろうか。
それとも発菩提心、修諸功徳と第十九願の行を励まなければ、第十八願の他力信心は獲得できないというのであろうか。
宗祖や蓮師は、自力の修行を積むことによってはじめて、自力無功が知られるのであるから、まず破邪顕正や財施などの自力の善根を積みなさいなどとは決して仰せられていない。
廻り道をしないで横超の直道によれ、速やかに自力を離れて本願他力に帰せよと、一すじにお勧めくださっているのである」(回答書(A) P・147)
「自力を通らねば他力に入れないのか」
とは、よくぞ言ったり。これぞ、真仮を知らざるなによりの証拠。
そして、あたかも親鸞会が、捨家棄欲や、聖道自力の修行でも、すすめているかにお書きなさる。こういうデタラメを言われるから、噴飯ものの論評といわざるを得ないのだ。
自力とか、十九願というと、捨家棄欲、自力修行としか考えられぬ半身不随的理解では、本願寺らしいとはいえるけど、十九願の正意を知ろうとしても、ムリである。