親鸞会と本願寺の相違点


浄土真宗の正しい御本尊は?

 ×木像でも絵像でもよい
 ○御名号でなければならぬ

阿弥陀仏の救いについて

 ×ハッキリするものではない
 ○救われたら、 ハッキリする

助かるのはいつか

 ×死なねば助からぬ
 ○生きている時に助かる

救われたらどうなるのか

 ×この世で救われたということはありえない
 ○無碍の一道、絶対の幸福になれる

どうしたら助かるのか

 ×念仏さえ称えておればいい
 ○真実の信心一つで救われる

喜んでいること

 ×死んだらお助けを喜べ
 ○現在、助かったことを喜ぶ身になれ

念仏について

 ×念仏はみな同じだ
 ○自力の念仏では助からぬ。
  他力の念仏を称える身になれ

使命としていること

 ×葬式・法事・読経・遺骨の後始末
 ○本当の親鸞聖人の教えを伝えること





マンガで分かる
親鸞会と本願寺の違い





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親鸞会 空白

使命としていること


 親鸞会の主張

 弥陀の本願を伝えて、すべての人々を絶対の幸福に導くことを使命とせよ、と教えられた親鸞聖人に反して、本願寺は葬式や法事・読経、遺骨の後始末を使命のごとくやっているのは大きな誤りである。

 本願寺の反論

 名号のおいわれを聞かせていただき、自ら本願を信じ、人にもこれを勧めることが使命であることは申すまでもありません。
 聖人が「某、閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」と仰せられたのは、形式主義の葬式をいましめられたもので、大切な両親や縁者などの死を粗末にあつかってよいと言われたのではありません。私達は葬式や法事も大切な聞法の場であることを十分理解いたしましょう。

どちらがウソか


 本願寺は、生きている時に絶対の幸福になれる弥陀の本願を説かず、死骸や遺骨の後始末に一生懸命で、葬式や法事を使命のように心得ているのは、親鸞聖人の教えに反すると指摘し覚醒を促してきました。

 それに対して本願寺は、
「自ら本願を信じ、人にもこれを勧めることを使命としていることは申すまでもありません」
と、このたび反論しています。

 うまく犯罪をかくし、人は知るまいと思っていても、すっかり世間に知れ渡っていることを、「耳をおおいて鈴を盗む」といいますが、本願寺の反論ほど大衆を馬鹿にしたものはないでしょう。

 いままでの対立点の中には、実際、本願寺の説教を聞いて来た人でなければ、どちらが本当なのか、ハッキリしないこともあったでしょうが、この度の本願寺の堂々たるウソで、大衆は本願寺の体質をまざまざと見せつけられたことでしょう。

 

大衆の常識


 本願寺が「申すまでもない」と断言していることが、果たして事実か、どうか。
 今さら指摘するまでもなく、葬式仏教、法事仏教、儀式仏教、墓番仏教と世間から酷評されるようになっていかに久しいことか。

 かつて、次のようなマンガを見て苦笑したことがあります。

 医者が懐中時計を道に落としていく。後から黒衣を着た僧侶がやってきて、その時計を見つけてネコババする。
 ところが不覚にも時計のクサリが懐からのぞいていた。時計を落とした医者が慌てて引き返し、件の僧に尋ねるが僧侶は知らぬ存ぜぬで押し通す。
 その時、懐から顔を出しているクサリを見つけた医者は、ぜひそれを見せてほしいと申し込む。
 しまったと思ったがあとの祭り、これは私の懐中時計だが、しばらくならお見せしましょうと、僧侶はシブシブ医者の手に渡す。
 医者は早速、聴診器を取り出し時計を診察して、いわく、
「坊さん、この時計はまだコチコチと生きていますから私が預かります。死んだらあなたにお渡ししましょう」。
 医者は笑いながら立ち去っていく、というものでした。

 今日、寺や僧侶といったら死者や葬式を思い出すのが大衆の常識になっています。
 いくら本願寺が、
「自ら本願を信じ、人にもこれを勧めることを使命としていることは申すまでもない」
と開き直ってみても、全国の僧侶は何をしているのか、大衆が一番その実態を知っているのです。

 

僧侶の実態


 寺の経済は火の車で、『教行信証』や『歎異鈔』に、あれほど追善供養を否定なされた親鸞聖人の教えを踏みにじり、葬式や法事や墓番の、死者を中心とする追善供養類似のことばかりを本職にしていますから、葬式や法事の時だけ現われる、人が死ぬのを待っている輩ではないかとさえいわれています。
 これではもはや、親鸞聖人とは何の関係もない存在と言わなければなりません。

 

寺院の実態


「自ら本願を信じ、人にも勧める」
どころか、晴れたも曇ったも分からぬ信仰で、酒色に溺れ、囲碁やマージャンで日を暮らし、不平と呪いの生活をしているから、門徒は愛想をつかし、参詣者は減るばかり。たまたま法座を開けば赤字が出て余計に生活に困るから、説教やめて衣を脱いで腰弁で月給取り。

 本堂は囲碁会や宴会、せり市、集会所、中古品売捌所、果てはクリスマスパーティーにまで貸して、露命をつないでいる。
 それでも苦しいので、本堂の屋根が落ちた、鬼瓦が落ちたといっては門徒に泣きつく。気の毒といおうか、情けないといおうか、表す言葉もありません。
 そのために、社会人の尊敬を失い、門信徒の信頼を裏切り、社会の寄生虫的存在といわれているのが僧侶の現状ではありませんか。

 親鸞聖人の真精神に一日も早く立ち返って、たくましく布教に邁進してもらいたいものです。


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