中外日報 平成21年2月3日
「成人の不安に思う」
本願寺本山で行われた成人式で、多くの新成人が「将来の不安」を口にしたことを憂慮し、大谷光真門主は、こう述べられたとのことです。
「いつの世にも青年の将来への不安はありますが、これはそういった単純なものではなく、世の中をも含めた不安を感じているのだと思います。
そういうことを思います時に、私たち一人一人のいのちを大切にする生き方、世の中を築いてゆかねばならないことを痛感致します」
「お念仏とともに歩む人生、そこから人々の心のつながりを築いてゆく、支え合う生き方を築いてゆくことの大切さを思う今日です」
またもや、
「お念仏とともに歩む人生が大切」
という意味不明な言葉。
果たして「新成人」たちは、この門主の話を聞いて、「将来の不安」が解消されたのでしょうか。
生きる方角はハッキリされたのでしょうか。
とてもそうは思えません。
ついつい、同じような指摘をしてしまうのは、門主さまの仰ることが、毎度同じだからです。
さて、大谷氏がいつも繰り返されている、
「お念仏とともに歩む人生」
ということが、
「口で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と生涯、称えていくこと」
であるとすれば、それにはどんな意味があって、何のために称える念仏なのでしょう。
「念仏」は確かに「口で南無阿弥陀仏と称えること」ですが、親鸞聖人が教え勧められている念仏とは「他力の念仏」であり、「他力の念仏」とは「他力の信心を獲た上の念仏」のことです。
では、「他力の信心」とは何か。
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」
大海は芥を選ばず、弥陀の救いには一切の差別はない。
老人も若者も、世間でいう善人も悪人も区別なく、なんの隔てもなく救う弥陀の本願だが、「ただ信心を要とすと知るべし」と、クギをさされている。
「信心を要とす」と言うと、他宗教の信心と同じように、「親鸞も何かを信じよ、というのか」と思うかも知れないが、聖人の説く「信心」は、それらとは根本的に異なる、世間の蒙を啓くものである。
一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。
「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。
「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。
"ひょっとしたら失敗するかも"の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。
ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。
だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。
どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。
「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、"摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える"という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。
弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。
この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、"弥陀の本願に疑い晴れた心"を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。
この「他力信心」以外、聖人の教えはないから、「信心為本」「唯信独達の法門」といわれるのだ。
簡潔な文証を二、三、あげてみよう。
涅槃の真因は唯信心を以てす(教行信証)
浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。
正定の因は唯信心なり(正信偈)
仏になれる身になる因は、信心一つだ。
蓮如上人も『御文章』に、
「祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり」(二帖目三通)
と断定し、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
(四帖目十五通)
と遺言されている。
『歎異抄』を総括する一章には、短い章にもかかわらず、「信」の文字が繰り返される。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」
「しかれば本願を信ぜんには」
「ただ信心を要とすと知るべし」
聖人の教えにとって、いかに「信心」肝要か、明らかだ。
肝心の「他力の信心」「信楽」を知らずして、『歎異抄』を知らんとするは、木に縁りて魚を求むるがごとし、と牢記すべきであろう。
この、親鸞聖人の教えの肝要である「他力の信心」が明らかにされない限り、結局、「他力の念仏」とはどんなことかも分からないし、親鸞聖人が私たちに望まれる人生を歩むこともできません。
『歎異抄をひらく』に示されていることから分かるように、弥陀から頂く「往生一定の決定心」を、「他力の信心」と言われるのです。
「往生一定の決定心」とは、"いつ死んでも弥陀の浄土へ往ける"とハッキリした心のこと。
これは、100パーセント確実な「将来」である「後生」の「不安」が、微塵も無くなった心ですから、絶対に崩れない大安心・大満足です。
その「他力の信心」を獲得して、絶対の幸福に救い摂られた上の、弥陀が称えさせるお礼の念仏が「他力の念仏」なのです。
だから、「他力の信心」が鮮明にされない限り、親鸞聖人の「念仏」は、絶対に分かりません。
「将来の不安」を訴える新成人に、「後生の不安」が根っ子にあることを教え、その「後生不安な心」を打ち破って「往生一定(他力の信心)」に救い摂る、「弥陀の本願」を鮮明にしてこそ、「本願寺」になるのではないでしょうか。
「弥陀の本願」を伝えるべき「本願寺」のトップである門主さまが、なぜ、この本願の肝要の「他力の信心」を説こうとしないのか、あるいは「分からないから、説けない」のか。
いずれにせよ、もどかしく悲しい限りです。
浄土真宗親鸞会は、「信心一つ」の親鸞聖人の教えを、ひたすら明らかにする。
今までも今も今からも、この大切な使命に突き進むことでしょう。
親鸞会会員が見た本願寺の現状 一覧