

それは聞いてはいけないんだ。
強制されたことはありません。
寺の法話ピンとこない事ばかり
善知識はおられない。
どんな人生設計も死で崩れる。
本当に感謝せずにおれません。
分かって貰えないと思いました
因果の道理を教えていただいて…
東大理科三類(医学部)合格。
幸せな時間を嬉しく思います。
東大大学院「全優」成績表公開
初めて親の恩が知らされた。
考え直すよう言われます。
何度参詣するかは個人の自由。
心配は杞憂に終わりました。
恩知らずが申し訳なく。
なんと父が祖母と親鸞会に参詣
おかげて真実聞くことできた。
大谷派の近代教学は全く誤り
御名号こそ真宗の正しい本尊
教えを聞きたくても。
空いた口が塞がりません。
本願寺の僧侶の説法に愕然
人生に後悔はないと確信
本願寺別院輪番が説法もなく。
廃れていたのは本願寺だった。
会場の部屋は満席、立ち見も。
『正信偈』の冒頭の意味
「死んだら極楽」と聞いてきた
親鸞会で初めて知りました。
これでは寺はどうなるのか
僧侶の決まり文言死んだら極楽
しばらくご縁のないまま…
親鸞会さんはちゃんとしとるね
本願寺門徒でスパイの気持ちで
親鸞会でお話を聞いて感動
役僧「分からんでも仕方ない」
寺の住職の意識改革が絶対必要
東本願寺は死後を否定しながら…
家庭法話を続けてよかった。
本願寺を見切りました
最初の五分仏教、後は喧嘩の話
住職の信じ難い言葉に唖然
「あて所に尋ねあたりません」
と郵便物が返っくるのです。実体のない団体なのでしょうか?
すごい形相で怒り出しました。少しこわかったです。
「仏教の目的はなんですか」
「それは分からん」
「では本願寺の目的は」
「それは親鸞会に指摘されているとおり、葬式、法事ばかりになってしまっているのが現状です」
実名でメールを送っても名乗らない
本願寺も親鸞会はカルトではない
高額な財施を募っている?
高森顕徹先生に無条件服従を強いられる?
家族関係がうまくいかなくなったのも、全部親鸞会のマインドコントロールによる?
真宗大谷派が本願寺維持財団を提訴(2010/07/29 産経新聞)
まずは、産経新聞の記事を。
真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)は28日、財団法人・本願寺維持財団(同市山科区)に対し、信託財産約200億円の返還などを求める訴訟を京都地裁に起こした。
同派と宗祖親鸞の血脈を受け継ぐとされる大谷家との対立問題は「お東紛争」と呼ばれ、本願寺維持財団とは運営をめぐって現在も対立が続いている。
訴状などによると、同派は大正9年、同財団に現JR京都駅前の土地などを譲渡、第三者への賃貸で収益を上げるとした信託契約を結んだ。しかし、財団は平成4年、京都近鉄百貨店に貸していた土地約9700平方メートルを近鉄グループの不動産会社に売却。これに対し、同派は信託契約の解除とともに、少なくとも200億円とみられる土地の売却代金の返還を求めている。
財団は「訴状を見ていないのでコメントできない」としている。
真宗大谷派とは、いわゆる「東本願寺」です。
その東本願寺の学者のトップが、先ごろ『歎異抄』にまつわる本を出しました。
著書の中で、親鸞聖人の仰る「無碍の一道」とは、
「すべての束縛から解放された自由な世界」であり、
「善悪を超えた自由な世界」である、
と述べています。つまりそれは言葉を換えれば、
「善悪、好き嫌い、勝ち負けにこだわる『執着』から開放される」
ということであり、
「勝ち負けとか優越感と劣等感の間で苦しむことのない」、
「身も心も柔らかになって、何事も喜んで負けていけるような生き方に転じたこと」
だと解説しています。
(参考 http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic20.htm)
そうなると、初めに紹介した記事は、どうなるのでしょうか。これは一言で言うと、
「東本願寺が、200億円というお金のことで、訴訟を起こした」
ということですが、訴訟を起こすのは、「勝つため」でしょう。「負けるため」に訴えるなど、考えられません。むろん、「勝っても負けてもどっちでもいい、こだわりません」などと思って訴訟を起こす人もないでしょう。「勝ち負けにこだわらない」のであれば、最初から訴えなければいいのです。
ところが東本願寺さんによれば、
「無碍の一道」とは「何事も喜んで負けていけるような生き方」だということですから、この訴訟も「喜んで負けるために」なされていることになります。これがまともな思考回路といえるでしょうか。
「いや、まだ誰も無碍の一道には出ていないから、みんな勝ち負けにこだわっています」というのなら、分かります。しかし本を読む限りでは、東本願寺の人はみんな無碍の一道に出ているおつもりのようですから、「勝ち負けにこだわってはいない」はずです。
少なくとも、東本願寺の教えとして、
「人間の目指す究極の目的が『無碍の一道』に出ること」であり、
「無碍の一道とは、勝ち負けにこだわる『執着』から開放されることである」
と説くのならば、その東本願寺が誰かを相手に訴訟を起こすのはおかしいでしょう。訴訟には「勝ち敗け」がつきものなのですから。これでは「勝ち負けの『執着』から開放されている」とは言えないじゃありませんか。
このように、ちょっと考えればおかしいとすぐ分かる自己矛盾に、なぜ「ゆゆしき学匠たち」がお気づきにならないのでしょうか。所詮は中身のない、空疎な言葉をもてあそんでいるだけの、お戯れだからでしょう。
「執着」といっても煩悩です。煩悩は死ぬまで無くならない、というのは親鸞聖人の教えの基本です。そのことは、朝晩の『正信偈』では、
「不断煩悩得涅槃」
〝煩悩を断ぜずして、弥陀に救われるのである〟
また、ご和讃にも、
「有漏の穢身はかわらねど 心は浄土にあそぶなり」
〝煩悩いっぱいは変わらないままで、心は浄土へ往って遊んでいるように明るく愉快なのだ〟
と仰っているとおりです。
このように、阿弥陀如来に救い摂られたならば、欲や怒り・ねたみそねみ・執着などの煩悩いっぱいあるままで、浄土往生のさわりとならなくなるから「無碍の一道」と聖人は言われているのです。ですから、学者が観念の遊戯にふけっているような、そんな世界とは次元が違うのです。
訴訟云々はどっちでもいいですが、かりにも「真宗」の看板を掲げて、「親鸞聖人の教え」だと公言して伝えるならば、あくまでも親鸞聖人のお言葉を物差しとしなければなりません。自分の勝手な考えや、思いなど混入させてはならないのです。ご門徒や真摯な読者は、そんなものを聞きたいのではありません。知りたいのは「親鸞聖人の教え」です。
高森顕徹先生の『歎異抄をひらく』に聞きましょう。
◇ ◇ ◇
【13】 弥陀に救われたらどうなるの? 万人の問いに親鸞聖人の回答
(原文)
念仏者は無碍の一道なり(『歎異抄』第七章)
〔意訳〕
弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である。
七章冒頭のこのお言葉は、よく知られ、種々に論じられているところである。
特に「無碍の一道」は、「妨げるものは何一つ無い絶対の道」とか「何ものも障りにならぬ、ただ一つの通路」などと解説されるが、理解する人はあまり多くあるまい。
すぐ後に「罪悪も業報を感ずることあたわず」とあるから、「念仏者は、罪悪感から解放される」「念仏すれば、悪の報いを受けずに済むのだろう」と思う人さえあるようだ。「無碍の一道」の誤解である。
「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、〝浄土往生〟であることを確認しておかなければならないだろう。
ゆえに「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、〝浄土往生の障り〟のことである。弥陀に救い摂られれば、たとえ如何なることで、どんな罪悪を犯しても、〝必ず浄土へ往ける金剛心〟には、まったく影響しないから、
罪悪も業報を感ずることあたわず
(『歎異抄』第七章)
いかなる罪悪も、「必ず浄土へ往ける身になった」弥陀の救いの障りとはならない。
と言明し、「念仏者は無碍の一道なり」と公言されるのである。
ではなぜ、悪を犯しても往生の障りにならぬのか。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに (『歎異抄』第一章)
ひとたび弥陀の救いに値えば、どんな罪悪を犯しても、自分の罪の深さに怖れおののき、浄土往生を危ぶむ不安や恐れは皆無となる。弥陀の本願に救われた往生一定の決定心を、乱せるほどの悪はないからである。
何ものも崩せぬ、邪魔だてできぬ、不可称・不可説・不可思議の世界が信楽(信心)だから、「無碍の一道」と聖人は喝破されたのだ。
同時に「無碍の一道」の素晴らしさは、いかなる善行を、どんなに励んだ結果も及ばぬ、十方法界最第一の果報であるから、
「諸善も及ぶことなし」(第七章)
「念仏にまさるべき善なし」(第一章)
と、『歎異抄』は宣言するのである。
では「念仏者」とは、どんな人をいうのであろうか。
「念仏者」と聞くと、口で〝南無阿弥陀仏〟と称えている、すべての人と思うだろうが、そうではないのだ。
化学的には同じ涙でも、〝嬉し涙〟あり、〝悲し涙〟〝くやし涙〟など、さまざまあるように、ひとしく〝南無阿弥陀仏〟と称えていても、称え心はまちまちである。
夜中に通る墓場で、魔除け心で称える念仏もあろうし、肉親に死なれ、悲しみ心で称える念仏もあろう。台本にあるから、仕事心で称える俳優の念仏もあるだろう。
同じく念仏称えていても、「諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って称えている念仏者(万行随一の念仏)もあれば、「諸善とはケタ違いに勝れた大善根が念仏だ」と、専ら称える念仏者(万行超過の念仏)もいる。
称え心を、もっとも重視された聖人は、これらの念仏者を総括して自力の念仏者と詳説される。
それとは違って、弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏者(自然法爾の念仏)を、他力の念仏者と聖人は判別されている。
聖人の念仏者とは、いつもその中の、他力の念仏者であり、弥陀に救われた信心獲得の人のことである。
直後に「信心の行者」と言い換えられていることでも、明白だろう。
他力の信心を獲得すれば、なにものも往生の障りとはならないから、
「念仏者は無碍の一道なり」
と、聖人は道破されたのである。
(『歎異抄をひらく』より)
◇ ◇ ◇
ゆえに一日も片時も急いで信心獲得してくれよ。これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、重ねて確認したいと思います。