

─本願寺僧侶の非難に答える─
レッスン1.人間の論理について
レッスン2.マインドコントロール
レッスン3.思考停止
レッスン4.トルストイ
レッスン5.まだ分からないのか
レッスン6.夢さめる
レッスン7.五逆罪
レッスン8.謗法罪
レッスン9.聴聞姿勢
レッスン10.感謝の心
レッスン11.不幸な人
レッスン12.自明なこと
レッスン13.幸福な人
レッスン14.真実は一つ
レッスン15.反証可能な真理?
レッスン16.三世因果
レッスン17.破滅の道
レッスン18.ナワをうらむ泥棒
レッスン19.無限の向上
レッスン20.仏法の精粋
レッスン21.日々の精進
レッスン22.疑謗と仏縁
レッスン23.信ずる衆生と謗る衆生
追記1.本願寺と親鸞会
追記2.作家吉川英治さんの悲嘆
追記3.「反響集」を読んで
追記4.横超の直道
追記5.信心数え歌
追記6.真実
追記7.絶対教判
追記8.マインドコントロール論不毛
追記9.冷血
追記10.広い視野?
追記11.学生時代の仏縁
追記12.勝興寺の惨状
追記13.仏恩と師恩
追記14.因果の道理
追記15.マインドコントロール?
追記16.無責任
追記17.あえてよかった
追記18.沈黙
追記19.錯誤相関?
追記20.一向専念
追記21.この程度
追記22.思い込み
追記23.意味のある苦しみ
追記24.二河白道
追記25.生きる目的ハッキリすれば
追記26.急いで急がず急がず急ぐ
追記27.ご恩を有難く感謝する者
追記28.光に向かって
「親鸞会はマインドコントロールをしているのではないか」という批判を論破するサイト。
マインドコントロールとは何か、そして、親鸞聖人の教えはいかなるものか、他力の信心とは何なのか、詳しく解説しています。
オススメです!
「『横超』とは、即ち願成就一実円満の真教・真宗これなり」
(教行信証信巻)
親鸞聖人は、本願成就文の教えこそ、唯一の真実であり、完全無欠のまことの教え、不足は全くないのだと断定されている。
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」(改邪鈔)
聖人のみ教えを面授口決された覚如上人は、本願成就文の教えだけが、真実信心獲得の依憑、「このほか聖人から聞いたことがない」と言い切られている。
信心獲得一つを念じられた親鸞聖人は、願成就の教え以外、説かれたことがなかったのだ。
覚如上人も蓮如上人も、一貫してそうであったことは言うまでもない。これら善知識方に共通して、「私は、ああだった、こうなった」などの具体的な体験談など、どこにも見られないのである。
かかる善知識のご教化に従い、親鸞学徒は、「願成就の教え以外は聞かず、読まず」でなければならぬのは当然であろう。
ところがである。自分の獲信体験なるものを得意げに書きまくり言いまくり、他人にも読ませ、聞かせている者たちがいる。
ある者は、「オレは弥陀の呼び声を聞いた。お前ら、まだ獲信できんのか」とうそぶき、「法施も財施も要らん。聞いてさえおればいいのだ」と放言する。
善の勧めの否定は、弥陀の三願転入の仏意の蹂躙であり、親鸞聖人のみ教えの破壊である。その大罪の自覚もなければ、「救われた」と言いながら、懺悔も歓喜もない。無論、「遠く宿縁を慶ぶ」心などさらにない。
弥陀より賜る白道どころか、恨みと呪いの真っ黒な愚痴を言いっぱなして恥じない〝自称獲信者〟もいる。
ニセ体験であることは明白だが、なぜこうしたニセモノが後を絶たないのか。
これには、からくりがあるのだ。
彼らの座談会では、「激しく念仏が出た」「泣いた」「笑った」「躍った」「慟哭した」などの体験談が、しばしば獲信として語られる。また書籍や出版物には、それらしい体験記が山ほど掲載されている。まさに疑似体験のオンパレードなのだが、そんな体験を、できるだけ繰り返し多く聞かせ、読ませることで、新たな疑似体験者を次々と生み出すのである。
こうした体験記は、まさに彼らの生命線なのだ。
そんな喜びがあるのかと、興味をもって近づいてきた者には、無常と罪悪で責め立てる。
信仰を求め、後生の一大事の解決を一刻も早く、と急ぐまじめな聞法者にとっては、憧れの体験でもある。
今晩とも知れぬ命、罪悪深重の己が、今死ねばどうなる。後生が気になり、つらい、つらい、私も早く救われたい、ああなりたいと自分を急き立てる。大声で念仏称えたり、なんでオレは救われないのだ、と叫んだりもする。韋提希のように、はいずり回る者も現れる。
弥陀の呼び声、一声聞きたい。聞いて、早く楽になりたい一心である。
すると人間の心は、まことに複雑怪奇。自分で自分に説法する。心の中から呼び声を発するのだ。恐るべき自己暗示は、聞こえない声も、聞こえたと深く思い込ませてしまうのである。
つかんだら、もう放さない。それで、信心いただいた、ああ、オレはもう助かった、となる。
そんな程度の体験でも、周りから喜ばれたり褒められたり、本に掲載されたりするから、本人はいよいよ間違いないと信じ込む。
彼らの獲信記録は、こうして造られるのである。
だが、おかしなことに彼らは、救われると聞く気がなくなる。
ひそかに念仏称え続けるのは、
まだいいほうで、実にあっさりと仏法から離れる者が、また後を絶たない。体験当初、あれほど喜びを語っていた者が、数年後に出会うと、すっかり冷めていることに驚いたことがある。
ましてや、親鸞聖人や蓮如上人のごとく、「十方にひとしく弘むべし」と大衆に飛び込んで布教するなど皆無である。
高森顕徹先生の「燃える恩徳讃」とは天地雲泥で、だから参詣者も一向に増えない。実に消極的、退嬰的、無気力で我利我利な信仰なのだ。
誰かが笑って言っていた。
「彼らより、親鸞会の会員のほうが、ずっと元気で明るいですね」
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、深い洞察によって、自らの具体的な獲信体験は一切書かれなかったし、言われなかった。
これが、紛れもない事実だ。
ただひたすら、「一実円満の真教・真宗」である願成就の教えの開顕に、全生涯を捧げられたのである。